合格以上の成長を見せた中学受験を振り返って

33期生(2026年卒) 受験生・保護者(母)

 2月4日の朝、娘は第一志望校の最後の受験会場に、いつも通り、気負う様子もなく入っていきました。すでに埼玉入試で第二志望校の合格を頂いていたため、東京入試はチャレンジのみの強気一辺倒の出願でここまで連敗。

 しかし、本人は何度「残念ながら…」の灰色の画面を見ても、淡々と5時に起床し、飄々と各校の試験会場に向かっていきました。

 メンタルが強いのか鈍感なのか…私たちにも分かりませんが、極めて勇敢に立ち向かっていたのは間違いありません。一方の親は脆いもので、敗色濃厚の戦いに挑む我が子の、無邪気でたくましい後ろ姿(と自分の無力感に)に涙をこらえられませんでした。


 同日19時、第一志望の不合格が確定すると、娘は何も言わず自室にこもりました。部屋から漏れてくるすすり泣きのような声に思わずドアを開けると、そこにはYouTubeを見ながら爆笑している、解放感あふれる娘の姿がありました。

「受験終わったんだから、今日はゲームで徹夜する!」、「ダメ、寝なさい」、そんなしょうもない言い合いをしながら、「ああ、我が家の受験は終わったんだな」と実感しました。


 振り返れば、迷いと悩みと反省ばかりだった我が家の受験。反面教師としてお読みいただけると幸いです。


 我が家の中学受験は、親の意思で始まりました。両親ともに中学受験は未経験。娘が4年生の春になってようやく、高校受験から女子が行ける進学校の選択肢が狭まっている昨今の受験事情を認識し、内申点稼ぎに苦労しそうな娘の性格からも、中学受験のほうがよいのではと考えだしたのです。   

  「とりあえず適性があるかを見てみよう」と、塾選びが重要という認識すらないまま近所の小規模塾に4年の夏期講習から通い始めるという、すでに出だしから遅れをとっての参戦でした。

 娘自身は志望校、熱望校があったわけでもなく、「お母さんが言うなら、やってもいいよ」という至極受動的なスタンス。5年生の終わりに「受験勉強が嫌なわけじゃないけど、やっぱり友達と同じ中学に行きたい」と言いだしたり、成績よりもノートの隅に描かれるイラストのクオリティ向上に情熱を注ぐような、ある種、悲壮感の漂わない受験生活となったのは、彼女らしい帰着だったのかもしれません。


 その後、より高いレベルでの刺激と中学受験に特化した専門的な指導を求め、新5年の3月にエデュコへと転塾します。不安をあおったり課題を押し付けたりするのではなく、本人と家庭との合意のもと「勉強上手」を目指す方針、そしてユーモアあふれる体験授業(「秋の七草」の覚え方)に大受けした娘の姿が決め手になりました。

 ちなみに、娘はいかにも私立らしいキラキラした学校や、お行儀のよいお嬢様校は「なんか違う」と感じたようで、けっきょく雑多で飾らず、質実剛健、のびのびした雰囲気の共学校が志望校の中心になりました。こうした嗜好からも、エデュコの空気感は娘に合っていたのかもしれません。


 こうして始まった家族一丸での受験。算数が苦手なことを、中受界隈のネットスラングで「惨数」と呼ぶそうですが、国語・理科・社会(歴史)はあまり苦にしなかった娘は、受験勉強のほとんどを「惨数」対策に費やすことになります。


 エデュコに移った当初、いきなりスピードと密度が上がった授業にノートすら取り切れず、最初の総合テストの算数は10点台、平均点が70点越えのEWでも40点、答案の半分以上が白紙という惨状。焦る気持ちを抑え「まずはEWの点数だけを追おう」と、その週の例題を父とともに愚直に解き直す日々が続きました。

 点数は上がらずとも少しずつ白紙回答が減り、手応えを感じ始めた5年下期、御三家クラスに移ると今度は難易度の壁に直面します。練習問題は理解できず、赤ペンでの丸写しが続き、総合回テストの順位も低迷する、苦しい時期を過ごしました。

 この間、娘には「『わかる』を『できる』に変えていこう」としつこいほど声をかけましたが、実はその言葉の真の難しさを突きつけられていたのは、私自身でした。

 「できたことを認め、まず褒める」重要性を、頭で「わかって」はいる。しかし、いざミスを見ると、その理解を実践「できない」。指摘ばかりしてやる気を削ぐ母に、娘は向き合うことさえ拒否し、家の中は最悪の空気に陥りました。

 点数は上がらずとも少しずつ白紙回答が減り、手応えを感じ始めた5年下期、御三家クラスに移ると今度は難易度の壁に直面します。練習問題は理解できず、赤ペンでの丸写しが続き、総合回テストの順位も低迷する、苦しい時期を過ごしました。

 この「わかる」と「できる」の深い溝に葛藤する私と娘を救ってくれたのは、父(夫)でした。仕事で多忙な中、土日はつきっきりで娘の隣に座り、心に寄り添い続けてくれたのです。学習サポートは父、母は後方支援という役割分担ができていなければ、完走は難しかったはずです。


 転機は、思い切って基本的な計算練習と基礎の徹底に立ち返ったことでした。6年進級を機に再び名門クラスへ戻り、『4科のまとめ』を2月から夏前までに4周。その反復の中で娘がふと「何かモヤが晴れた気がする」と口にした通り、6月の合不合判定テストでは基本問題を確実に仕留めて、初めて算数偏差値60をマーク。最後の総合回テストでも2科で優秀賞をいただくなど、地道な基礎固めの成果が出てきました。


 偏差値的には憧れ校にワンチャンあるかも、という状態ながら、過去問演習では、模試レベルと実際の受験問題のレベル差に苦しみながら1月の埼玉入試を迎えます。

 偏差値相応の第二志望校とお守り校の3連戦は、第二志望校を2回連続で不合格。結果を見ると、やはり算数での失敗が響いていました。偏差値が高い回のほうが点差が少なかった結果に、偏差値という数字では測れない入試の怖さを思い知らされました。


 幸いだったのはお守り校の合格がそれほど間を空けずに出たことです。不合格でもちょっとがっかりする程度に見えた娘ですが、初めての合格の瞬間には弾ける笑顔を見せました。

 何より親の心を打ったのは、開示された点数でした。 苦手で、苦しみ抜いた算数で、娘は「9割以上」の得点を叩き出していたのです。受験全体の結果を見れば、確かに難しい(標準)問題を解き切るほどの実力には届かなかったのかもしれません。けれども、2年半積み上げてきた娘の努力が、基礎的な問題であれば本番でしっかりと取り切れる実力として、ここで可視化されました。娘の頑張りと成長の証に、親としてこれ以上の満足はありません。


 そして第二志望の3回目、またしても算数はやらかしたものの、得意の国語で大きく巻き返し、理科・社会で着実に取って、薄氷の合格を勝ち取ることができました。


 そして冒頭で述べた通り、1月に第二志望の合格をもらえたら、2月受験をチャレンジのみで押し切るのは既定路線。しかし、いざ実際に全敗が見えてきたとき、ひるんだのは娘ではなく親のほうでした。

  受験ではなく娘の人生にとってこの挑戦が最良だったのか。たとえ進学しない学校でも、合格の喜びをもう一度味わせてあげたほうがよかったのでは。

 そんな迷いを振り切れず、メンタルブレイクしそうな情けない親の心まで、湯田先生に支えていただいたこと、申し訳ないかぎりです。


 すべてが終わった後、娘に「受験、どうだった?」と尋ねると、「え~?(笑) けっこう楽しかったよ」とあっけらかんと答えが返ってきました。

  早朝の激励で先生方に繰り返しかけていただいたとおり、「堂々と、誇り高く」戦い抜いた充実感に満ちた言葉でした。


 合格という結果以上に「走りきった」という事実が、彼女の今後の人生の「心の基盤」になってくれるなら、私たちの受験は大成功だったと確信しています。

 悪路さえも楽しみながら娘が完走できたのは、間違いなくエデュコの先生方とお友達のおかげです。楽しく分かりやすい授業、塾に来たくなる雰囲気作りはプロの熟練の技でした。合格のその先にある人生の成功を見据えて、私たち親子を導いてくださった幸運な巡り合いに、深く感謝申し上げます。悪路さえも楽しみながら娘が完走できたのは、間違いなくエデュコの先生方とお友達のおかげです。楽しく分かりやすい授業、塾に来たくなる雰囲気作りはプロの熟練の技でした。合格のその先にある人生の成功を見据えて、私たち親子を導いてくださった幸運な巡り合いに、深く感謝申し上げます。


 最後に、娘と一緒に走ってくれた33期生の皆さん、本当にありがとうございました。皆さんの未来が、ずっと幸せなものであることを心から願っています。