今なお中学受験に悩む

28期生(2021年卒) 受験生父・堀 和世

 娘(次女・珠己)が目標としていた学校の入試結果を知らせる妻からのLINEが着信した時、私はひどく落ち込んでいた。というのも、私はゆえあって前職を辞し、新しい仕事のスキルを教わるための学校に通っているのだが、ちょうどその日に行われた大事なテストで大失敗をしたばかりだったからだ。

 実は朝から、すべてがついていなかった。電車を降りる時に傘を座席に置き忘れたし、学校への行きがけに買ったペットボトル(炭酸飲料)のふたを講義室で開けたら、中身が勢いよく噴き出てズボンが濡れた。慌ててポケットの中を探ると、いつからか知らないが、ずっと洗濯に出さずじまいになっていた汚れたハンカチが出てきた。

 いやな予感は、ほぼ当たらない。それは知っているが、知っていても役に立たないことは世の中にいっぱいある。スマホのスリープを解除し、LINEアプリを開こうとしてはやめ……を繰り返した。結果を見ない限り、運命はまだ定まっていないと思うことができる。たった一つでもいい、何か「幸運」を感じられるものが欲しかった。
「あのね、入試は終わった瞬間に合否(順位)は決定しているんだよ。だから、合格発表を見る前に神様に祈ったりしても、全然意味ないんだよね」

 私は娘にいつか言ったことを思い出した。いや、考えただけで本当は言っていないかもしれないが、どちらでもいい。私は自分の言葉をまったくあてにしていなかった。

 何度目だったのか知らない。スマホを再びつかんだ。バックライトが起動し、液晶画面が立ち上がった。そこに「合図」があった。時刻を表すデジタル数字が、きれいにそろっていた。パスワードを打ち込み、アプリを立ち上げ、メッセージを開いた。片目をつぶり、画面を斜めに傾けて半眼でのぞいた。初めて見るが、ずっと見たいと思っていたものを私は見た。


 わが家で娘の受験をサポートした(というか自分事として実に果敢に挑んだ)のは妻なので、私にはほとんど語るべき材料がない(ときわ台駅北口ロータリーでウーバーイーツの人たちの会話を聞きながら、塾の終わりを待っていたくらいだ。依頼を受けて配達に向かうことを「飛ばされる」と言うと知った)。それでも厚かましく拙文をものそうと思ったのは、本人や妻はもちろんのこと、私自身も「中学受験」を経て、大きく変わったはずだからだ。妻子の二人三脚を見てきた〝お父さん〟の思いを書き残しておくのも、無駄ではないかもしれない。
 私は地方の公立小、中学校に通い、地元の県立高校に進んだ。そして大学受験、進学を機に東京に出てきた、ある意味〝典型的〟な都市生活者といえる。聞けば、そういう人たちが最も、子どもの中学受験の抵抗勢力になりやすいという。事実、私もそうだった。「いろんな子どもがいる公立でもまれたほうがいい」「小学生のうちから偏差値で輪切りにされるなんて残酷だ」「入試テクニックだけを磨いても将来役に立たない」。百歩譲って中学受験に挑むにしても、学ぶことや分かることが大好きで、そういう地頭(じあたま)さえ磨いていれば〝結果として〟入試をクリアすることができるだろう、と思っていた。

 正直に言えば、今でも基本的にはそう考えている。たかだか11,12歳の子どもが夜遅くまで塾通いをしたり、心身が大きく成長する大事な時期に慢性的な睡眠不足に陥るような状況には、もろ手を上げて賛成しづらい。だが、それは一般論であって、一般論は教室に掲げられた標語のようなものだ。一人の大人として、求められればしたりげに「廊下を走ってはいけません」と言うしかないが、廊下を走らなければいけなくなった時、いかに安全に走るかを子どもに見せてやるのも、大人のもう一つの顔である。

 丸2年間、娘がエデュコでお世話になっている間、私は「すべきでない」とされていることを残らずやった。模試やテストの結果には率先して一喜一憂したし、娘が部屋で漫画を読んでいたら「そんな時間あるのかな」と嫌みを言ったし、思いつきで算数の問題を自作しては解き切るまで許さなかった。偏差値(入試難易度)の高低で学校の値打ちを測る癖も習い性になった。それらをさんざんやってみて、「すべきでない」ことは、やはりしないほうがよかったと分かった。標語の通りにすれば安全だし、時間を無駄に費やすことも減る。しかし、はなから標語を信じるだけでは「この時期にD判定で突っ込んでいくなんて無理に決まってる」で終わってしまうだろう。


 中学受験をとかく一般論で語りたがる私にとって、中学受験生を子どもに持った私の心情を理解することは難しい。スマホ画面の時刻表示がゾロ目になることと、入試結果とはもとよりまったく関係がない。それでも、5分前でも1分後でもなく、「今」でなければいけないと直感したのが、後者としての私であったということだ。わが家にとっては一度きりの中学受験機会である。一度きりのことには成功も失敗もない。なぜなら比べるものがないからだ。ただ振り返り、かみしめる。そこで思い、感じるという営みが他でもない「私」なのであり、そうやって初めて、いずれかをなしたことになる。
 何かを得たいと願う者は代わりに何かを捨てなければならない、という。中学受験に当てはめても、期間限定にせよ好きなことを我慢しなかった子どもや家族はいないはずだ。しかし、そういう言い方を私は信じない。夢や希望は代償を必要としない。私たちはただ道を選び取るだけだ。ある人にとって、あるべき世界は常に変化し、新しく形作られていくが、その時、さまざまなものが捨てられるように他者からは見えるのだろう。
 時折聞く「ライバルを蹴落とせ」といった言葉も、乱暴で醜いだけでなく、正確さに欠ける。仮に娘がライバルだと思う子どもがいたとして、それは娘が選んだ世界の「見え方」であり、自分の一部であるからだ。そして、その子もまた自身の世界の中で娘を見ている。そういう一つ一つの世界の重なり合いによって、もっと大きな世界ができている。だから私は娘に「人に勝とうとするな」と教えた。彼女の中学受験に際して、私がした数少ない良いことの一つだが、それも言ったつもりになっているだけかもしれない。
 娘の中学受験は、とてもうれしく、満足できる結果で終わった。本人と妻の頑張りを私は尊敬している。好きな本や漫画を自由に買えない生活(隠していても娘が超人的な嗅覚で探索、発見して読むので)に耐え、協力してくれた長女にもありがとうと言いたい。

 そして、このかけがえのない「世界」を私どもに見せてくださった、エデュコの先生方、お顔はちゃんと存じませんが、すべての28期生とご家族の皆様に心から感謝いたします。本当にありがとうございました。